ローマ史論集 - CAESAR'S ROOMCOMENTARII DE SENATO POPULOQUE ROMANO
「ローマの家父長制度」
(一)概観
ローマは共和政期から帝政期を通じて,その卓越した政治的能力,特に公職者機構及び完備した法律体系によって有名であったが,一見近代的な法治国家のように見えるローマも,やはり近代国家とは明らかに違う数多くの古代的特徴を持っていた。その中でも特に注目すべきものは,「家」(familia)と「家父長」(pater familias)であった。以下その特徴について考察してゆく。
ローマにおける「家」(familia)の概念は近代的な意味での「家族」の他に「奴隷」「家畜」「財産」など「家父長」の支配下にあるもの全てを含み,血縁関係によって結び付くものではなく,純粋な法的制度であった。「家父長権」(patria potestas)は絶対的な宗主権であり,「ローマ国家」(res publica)に対する「支配権」(imperium)のような様相を持っていた。家父長は全家族に対して生殺与奪の権利を持った。生まれた子供はすぐに家父長の座っている椅子のもとに置かれ,家父長がこれを拾い上げると家族の一員として育てられるが,そうでなければ棄てられた。他の家に嫁にやられる運命の女の子,つまり自分の「家」の繁栄にはあまり役に立たない女子とか,不具や奇形の子などが捨てられたという。また,家父長は家族に対して「懲戒権」を持った。大カトー(Marcus Porcius Cato 前234〜前149)の言葉を借りると,
「夫は妻を裁く。その権能は無制限であり,全く家長の欲するがままに行使することができる。妻が過ちを犯せば夫は懲罰を与える。彼女が酒を飲めば彼は処罰する。もし彼女が他の男と通ずれば,彼はたちどころに彼女を殺す。」
といわれるほど強大なものであった。もちろん,子に対する懲戒権も同様であって,父が娘を淫乱を理由に殺したとか,謀反に参加した子を殺したとかいう例が伝えられている。
家父長は子を売る権利も持っていたし,子を強制的に結婚させたり,離婚させたり,養子として他の「家」へ移らせる権利も持っていた。また,財産の上でも大きな権利を持っていて,家族の財産を勝手に処分する権利(家族員が独立に得た財産を処分する権利も含む)を持っていた。
しかし,もちろん家父長は気まぐれや自分の勝手でその強大な権力を行使したわけではなく,普通の場合は彼は家人を愛し気遣い,夫あるいは父親として道義的責任を果たしていた。
たとえば,次のような話がある。ローマがアルバ=ロンガと戦いに臨んだとき,両者は双方から3人ずつの戦士を選び,その決闘によって決着をつけることとなった。ローマ側代表はホラティウス3兄弟,アルバ=ロンガ側はクリアティウス3兄弟であった。大激戦の末結局ローマ側の勝利となったが,6人の戦士のうち5人までが倒れ,ひとりのホラティウスだけが生き残った。彼は誇らしげにローマに凱旋したが,そこで妹のカミラが涙にくれているのを発見する。カミラはクリアティウス兄弟のひとりと婚約していたのである。祖国よりも婚約者の方を重視する妹の姿にホラティウスは激怒し,妹を刺し殺してしまった。彼はもちろん法によって裁かれ,公民を殺害したかどで絞首刑に処せられることとなった。しかし,処刑が行なわれようとするまさにそのとき,ホラティウス家の家父長の老ホラティウスが進み出て,息子の名誉を叫び,自分の家父長権を主張してついに告訴を取り下げさせたという。このように家父長権とは決して血も涙もない冷酷なものではなく,愛情と思いやりに満ちたものでもあった。それは強大なimperiumを持ったローマの公職者が,(原則的には)決して独裁権力を私することなく,国家の利益に添うよう理性的に行動したことを思い起こさせる。両者に共通するものは「信義」(fides)であった。公職者は国家と,家父長は家族と,この「信義」によって結ばれていたのであった。したがって,いくら法律上は家父長の下に立つとは言っても,ローマ人が「マトローナ」(matrona 敬愛すべき「妻」ないし「母」)に捧げた大きな敬意は,ときには家父長権を上回るものさえあった。
これについては次のような話がある。ガイウス=マルキウスはウォルスキー族との戦闘において英雄的な活躍をし,その首都コリオリの征服者という意味の「コリオラヌス」という添え名を得た。しかし,若くしてこのような名誉に慢心したコリオラヌスはローマ市民への穀物の無料配給に反対して,護民官の廷吏を殺害してしまった。彼はこの罪により追放刑に処せられることになったのであるが,そうなるとこともあろうに,今度はかつて自分が征服したウォルスキー族のもとへ出かけて行き,彼らにたきつけてローマに対する反乱を扇動し,自らが指揮をとった。このときコリオラヌスの母ウェトゥリアはローマに迫ったウォルスキー軍の陣地に出かけて行き,息子を説得し,ついにはローマ進軍を諦めさせたという。マトローナに対する敬愛の念が家父長権に勝った例である。
(二)歴史的変化
以上述べてきたような家父長権も,やはり時が経つに従って次第に緩和されてきた。たとえば,家族構成員を処罰して殺すことができる権限なども紀元前1世紀頃になると,それを行使しようとする者は無くなっていたといわれる。また,子の売却権も次第に制限されるようになり,コンスタンティヌス帝の頃(4世紀)には,売ることができたのは生れたばかりの赤子のみになっており,さらにユスティニアヌス帝時代(6世紀)には,家父長がきわめて貧しいとき以外の子の売却は禁止されるようになった。
前1世紀頃から家父長権に替わって権威を持ち始めたのは「親族会議」であり,その権威が高まるにつれて家父長が家族を罰する権利も次第に弱体化していった。
この頃から帝政期にかけて,ローマにおける家族関係に大きな変化が生じた。前16年にアウグストゥスはユリア法を制定し,その後のテオドシウス2世の法典(438年)などによって,「父権尊重=強大な家父長権」のローマ的原則が崩れ,ついにユスティニアヌス法典(6世紀)によって父権中心の古い法体系は消滅した。
それではなぜこのような変化が生じたのであろうか。この疑問に答えるためには,まずローマにおける典型的な家父長制家族が,何を土台として成り立っていたかを明らかにしなければならない。
「農業」が基幹産業であり,奴隷を所有するある程度分解の進んだ典型的な「古典古代ポリス」のローマでは,「家父長権」を維持する最大の基盤は,そこで行なわれる「奴隷制農業」であった。代々農業資産を受け継ぎ,また常に反抗する可能性を持っている奴隷を掌握するために,家父長は強大な権力を維持する必要があった。そうでなければ「ローマ国家」(res publica)を維持することが不可能だったのである。ところが,帝政期に入り商工業が飛躍的な発展を遂げると,それに反比例して農業の占める重要性が低下し,市民共同体内の分解が進むにつれて家父長権も変化せざるをえなかったのである。さらに重要な変化は,戦線(国境)の停滞のため奴隷の獲得が減少し,次第に奴隷の待遇を緩和せざるをえず,「解放奴隷」の数が増加したことである。彼らはひとつの社会階層として次第にローマ国家内でその重要性を増し,「解放奴隷」自身が「奴隷」労働を利用するまでに社会分解が進んできた。このように社会階級・階層の変動につれて家族内の関係についても修正を加える必要に迫られてきた。それは慣習のみならず法的措置にも現われてきたが,家族内の女性の地位向上を例にとって,その具体例を検討してみる。
* 初期には(法的にはともかく)実際には夫の側だけに認められていた離婚の権利が,帝政期になると女性の側にも認められるようになった。
* 当初は困難だった寡婦の再婚も,共和政末期頃から可能になりつつあった。
* 姦通に対する制裁も法律上は次第に寛大になり,せいぜいローマから200マイルのところへの追放刑となった。(もっとも,姦通の現場を捕らえた夫が,姦夫および姦婦を殺害できる慣習上の権利は残されていた。)
(女性の財産に関する問題等は『ローマ法について』参照)
(三)おわりに
以上,具体例を挙げて述べてきたように,ローマの家父長権は大変に強大であった。しかし,前にも触れたように,これを個別的事象だけを例にとって興味本位に捕らえることはできない。枝を見て木を見ないことになってしまう恐れがある。全体的な視点をもって「ローマの家族関係」を再整理するならば,ローマでは実質的にも法律的にも「家族」(familia)が社会を構成する基本単位となっていたこと,この「家族」というのは現代の家族の概念よりもはるかに広範であること,ラテン種族は明らかに母権および母系制を脱却しており,「父権=父系的氏族」を形成していたので,当然「家族」は「家父長的集団」であったこと,あるいはその背後に明らかに全ての要因として存在する,ある程度分解の進んだ「ローマ市民共同体(res publica)=古典古代ポリス」の意義を,我々は決して見のがしてはならない。
参考文献一覧
# 『ローマ人の国家と国家思想』 E=マイヤー 著 鈴木一州 訳 岩波書店
# 『新版 世界女性史』 玉城肇 著 西田書店
# 『物語 ローマ誕生神話』 ガイ=ド=トーリーヌ 著 植田・大久保 訳 社会思想社