ローマ史論集 - CAESAR'S ROOMCOMENTARII DE SENATO POPULOQUE ROMANO
「“自由学芸”と言う遊び
〜ヨーロッパ文明における“遊び”の意味」
オランダの歴史家ホイジンガはわれわれ人類のことをホモ=ルーデンス(Homo Ludens)と呼んだ。これは"遊ぶヒト"という意味である。本来人類は"賢いヒト"(Homo Sapiens)と呼ばれるわけであるのに,彼はいったい何を言いたかったのであろうか?この問いに日本人ほど答えることが難しい民族もいないだろう。というのも,われわれ日本人は本来飲食行為である喫茶を茶"道"という芸術に高め,闘争行為を剣"道"・柔"道"のように精神化してゆく民族である。"マージャン道"や"パチンコ道"というような言葉を使う人もいる。日本人は非常に勤勉な民族であり,何事においても命がけで最高の境地に達しなければならないという強迫観念に陥っているようだ。その日本人にとって「人間とは遊ぶから人間なのだ」というホイジンガの主張ほど奇異に映るものはないであろう。その真の意味を測るためには,やはりヨーロッパ文明の特異性を理解する必要がある。
もともとヨーロッパ文明の起源であるギリシア・ローマの世界は典型的な奴隷制社会であった。被征服民や戦争捕虜や債務返済不可能者は,奴隷の身に落とされると「人間性」を失い,「道具」としての扱いを受けた(もちろん現在でも大事な道具を粗末に扱うことはしないが)。彼らは政治や軍事以外の一切の労苦を背負わされ非常に苦しんだものであった。そして,その奴隷労働の上に,他のどこにも存在しなかったギリシア・ローマの「市民社会」が成立したのである。奴隷が働いてくれるために「市民」たちはヒマであった。そのためヒマを持て余した彼らは,哲学を語り学問を発展させていったのである(学校=schoolの語源が,ギリシア語のschole=ヒマであることはよく知られている)。そして,これはその後のヨーロッパ文明の基本的な考え方となった。 古代ローマにおいては,奴隷でない自由人は何のためでもなく純粋な知的好奇心のために学問をした。したがって,それは彼らにとっては労苦ではなく遊びの一種であり,学問を職業として生活の糧を稼ぐ医者や教師は奴隷が就く職業であった。この考え方は中世にも引き継がれた。西欧中世の大学で何よりも重視されたのは文法・修辞・天文学などの自由七学科(7 liberal arts)と呼ばれた学問であったが,この「自由」という意味は「奴隷は食っていくために学問を行なうが,自由な市民は純粋な知的好奇心を満たすために学問をする」という,つまり学問そのものが自由人の高貴な「遊び」であるという概念であった。現代の日本の大学の「一般教養課程」や高等学校の「普通科」はこの概念の移植に他ならない。
近代初期,ルネサンスが求める最高の人間は,レオナルド=ダ=ヴィンチの例を挙げるまでもなく,一芸に秀でた人ではなく,何でもできる「万能の人」(Homo Universitas)であった。中国の詩人は山水画をよくしたが,これもルネサンスの理想に通じるところがあるかもしれない。すなわち「芸術」(art)はすべて彼らにとって強いられた労苦ではなく,自由意志による「遊び」であったのだ。それでは,いつから「一芸に秀でる」ことが理想とされ,ひとつの「技術」(art)に熟練することがよしとされるようになったのであろうか。
中世においても熟練した技術を持つ職人は親方として大きな尊敬を集めた。彼らはギルド組織を通じて市政にも一定の影響力をもった。しかし,彼らにとってそれはあくまでも生きてゆくための術であった。そして,だからこそ彼らは被支配階級であったのだ。 しかし時代は変わった。17〜18世紀の市民革命の激動の中で,市民たちが社会の上部構造を占めるようになると,彼らと彼らの持つ技術のあり方が新たな意昧を持つようになってきた。さらに伝統的に商工業を嫌ったカトリックに代わって,プロテスタントが彼らに技術とそれに基づく営利活動の奨励を行なうと,一心にひとつの技術に身をささげる態度こそ神の御心にかなう技であるとされた。 その後産業革命の波の中で産業技術は飛躍的に進歩し,資本家だけでなく労働者の地位も次第に高まり,20世紀になるころにはいわゆる大衆杜会が成立してきた。その中で次第に「遊び」に対する意識は変化し,克己し,一芸に秀でることが理想的な市民だと目されるようになってきたと考えられる。
現在,日本では教育の目的を「手に職をつけるため」という人が多い。私も大学は文学部に行くと宣言したとき,父親から「そんなところに行って何の役に立つのか?」と反対された経験がある。日本人は明治維新以来,武士道に産業革命以来の西欧型功利主義をマッチングさせ,強烈な日本型立身出世思想をはぐくんできた。そのような日本人にとって,「遊ぶ」ことはイケナイことなのだという感覚は常についてまわる強迫観念となった。しかし,経済大国になって久しいなか,欧米諸国に比べノーベル賞受賞者が圧倒的に少ないという現実を見るにつけ,われわれ日本人ももう一度ホイジンガの言う「ホモ=ルーデンス」の意味を再認識することが必要ではないだろうか。