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ローマ史論集 - CAESAR'S ROOMCOMENTARII DE SENATO POPULOQUE ROMANO

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「概説-ローマの歴史」


 伝説によれば,ローマの建国は西暦紀元前753年にさかのぼる。(実際はもう100年ほどは新しいらしい。)父の王を殺され,自分たちももう少しで命を断たれるところを,間一髪救われたが,ティベル川へ流されてしまった双子の兄弟。この幼子たちからローマの歴史は始まる。

 何とか波に呑まれることなく岸に漂り着いたものの,腹を空かし泣き声を上げる彼らのもとに,これまた腹を空かせた一匹の雌狼の影が迫る・・・。赤子たちの運命やいかに!?・・・しかしどうだろう,何を思ったか,狼は赤子たちのそばに身を寄せると,彼らにその乳を与え始めたのである。こうして新たな伝説が始まった。(ちなみに,この「双子に乳を与える雌狼」の姿は,現在でもローマ市の紋章になっており,マンホールの蓋や街角の標識等,ローマの街のあちらこちらで目にすることができる。)やがて双子は農夫に救われ,ロムルスとレムスと名づけられ,すくすくと成長していった。その後,彼らは出生の秘密を知り,ついに父の仇を打ったが,そこからが新たな悲劇の開幕であった。兄ロムルスと弟レムスは,どちらが新しい国の王になるかで激しく争い,ついには些細なことから兄は弟を殺してしまった。このように,ローマの歴史は血塗られた兄弟殺しの伝説から始まる。しかし,最初の王となったこの兄ロムルス(Romulus)の名から,ローマ(Roma)の名が起こったのである。

 ローマはロムルスから7人の王が続いたという。しかし,その最後の3人は北イタリアに本拠を置く謎の民族,エトルリア人であったようだ。ローマは異民族の支配下に置かれていたのである。しかし,ローマ人の貴族たちは,前509年ついにこの王を追放し,国を「みんなのもの」(res publica=public things,英語の「共和国」repblicの語源)としたのである。こうして「共和政ローマ」が始まった。  この共和政の政治システムは,非常に優れたものであった。行政は無給の公職者たちによって担われるが,統領とも訳される執政官(コンスル)を頂点とする彼らは,必ず,複数・1年の任期で,市民の選挙によって選ばれた。議会(民会)と選挙-まるで現代にも通用しそうな民主的なシステムであるが,実は後ろで糸を引いていたのは,貴族の牙城,元老院であった。すなわち「共和政」とは言っても,その実は有力貴族による寡頭支配体制であり,ローマの大多数を占める平民たちには,事実上政治的権力は与えられていなかった。しかし,ローマはこの平民たちが重装歩兵として命がけで戦うことによって発展を続けてゆく。平民たちはその成果を背景に,階級闘争を続け,貴族の譲歩を勝ち取り,前494年には平民を守る特別職である「護民官」の設置を認めさせ,平民独自の議会である平民会の設立を勝ち取った。やがて前287年のホルテンシウス法により,貴族と平民の政治的立場は平等となっていく。  このように発展を続けるローマは,前272年にはイタリア半島を統一し,いよいよ海外に目を向けることとなった。しかし当時西地中海は,フェニキア人の植民都市,カルタゴ(現在のチュニジアの位置)に支配されており,ローマの海外進出のためには,カルタゴとの戦いを避けて通ることはできなかった。こうして始まったのが,ポエニ戦争(前264年〜)である。「ポエニ」とはフェニキア人に対するローマの呼び名である。当初は快進撃を続け,カルタゴより,初の海外領土(属州)となるシチリアを獲得したローマであったが,カルタゴの大将軍ハンニバルの逆襲に苦しみ,何度も何度も苦杯を舐めさせられた挙句,ようやくザマの戦いで起死回生の逆転勝利をあげたのであった。その後,前146年にカルタゴを壊滅させたローマは,同じ年ギリシアをも支配下に収め,ここにかつてのちっぽけな都市国家は,いまや地中海を内海とする大帝国に変貌を遂げた。しかし,そうなると古来の町内会的政治システムはもはや機能せず,ローマには矛盾の嵐が吹き荒れることとなった。

 戦場がローマから離れるに連れ,兵士たちの従軍年数は5年10年と延長され,運良く生きて帰っても,ふるさとの土地はすでに人手に渡り,彼らを待っていたものは,一家離散という悲劇であった。古代ギリシア・ローマの「重装歩兵」というシステムは,自分自身の収入で武器をそろえた市民が,自由意志により,自分の祖国を守るために戦うというものである。しかし,多年の従軍により畑は荒れ果て,打ち続く戦勝による属州の獲得と,そこからもたらされる安価な穀物による農産物の価格破壊により,イタリアの中産農民は破産した。彼らはまた,安価に流入を続ける捕虜奴隷の増加による奴隷制度の発展によって職を失い,土地・財産を失い,都市の遊民と化した。もはや武器を自弁して国防の主体たる重装歩兵になることは,不可能となっていた。しかし、彼らは相変わらず「清き一票」を持ちつづけていたため,有力者たちからは次の選挙をにらんで優遇され,無料で穀物の配給を受け,気晴らしのイベントの開催にうつつをぬかしていたのである。(「パンとサーカス」)しかし,国防力の低下に悩んだローマには,何らかの抜本的な改革が必要であった。それを行おうとしたのが,清廉の人,グラックス兄弟であった。

 まず前133年,護民官となった兄ティベリウスは,大土地私有の制限による土地の再分配によって,中産農民の再興を図ろうとした。しかしこれは当然,大土地所有者である貴族の猛反発に会い,ティベリウス=グラックスは非業の死を遂げ,10年後,兄の意志を継いだ弟ガイウスも,有力者の雇ったゴロツキに惨殺され,以後ローマは後戻りのできない内乱の渦に落ちてゆくことになる。

 この「内乱の一世紀」,ローマの世情は乱れに乱れた。有力者たちは私兵と化した「ローマ軍」を率い,街の真中でドンパチをはじめ,同盟市は裏切り,ゲルマン人はローマ市を襲い,奴隷反乱はイタリアを席巻し,ローマはまったく五里霧中の状態であった。

 このローマをどうするか。2つの対立する立場があった。一方は,元老院を背景に既得権益を守りながら,“安定成長”を続けてゆこうとする「閥族派」。もう一方は,大衆受けするスタンドプレーを駆使して,根本的な“改革”を図ろうとする「平民派」。しかし,結局のところ,同じ穴のむじなであった。

 まず最初に実力でローマの政界を牛耳ることになったのは,平民派のマリウスであった。しかし,閥族派はスッラを先頭に押し立てて政権の奪回を図り,マリウスの死後,最終的にスッラが独裁権力を掌握した。なろうと思えば彼は「王」にさえなれたかもしれない。しかし,彼は根っからの保守主義者であり,ローマの共和制の伝統を金科玉条としていた。そのため,玉座などには目もくれず,戦乱が静まると,さっさと政界を引退してしまったのである。ここに再び権力の空白が生まれた。そこに彗星のごとく登場してきたのが,みずからをGreat(Magnus)と呼んではばからないポンペイウスであった。

 彼は,スッラの跡を継ぎ,絢爛たる戦歴に包まれ,押しも押されぬローマの第一人者となっていた。しかし,その巨大な権勢に恐れを抱いた元老院は彼を疎んじ,ことあるごとに彼と対立していた。そして,ローマにはもう一人大立者がいた。大富豪クラッススである。だが,彼には人気がない。彼は消防隊を経営しながら,火事を出した家主の足元を見て家財道具を二束三文でかすめめ取るというあこぎなやり方で財を成したため,民衆からはそっぽを向かれていたのである。この二人ともが,独力でローマを牛耳る力はない。しかし,今,内乱を再開するのはご免だ。そこに新たな人物が登場してくる。ユリウス=カエサルである。

 まだ若く,何ら政治的背景も持たない彼であったが,その抜群の人心掌握力により,ローマで並ぶものなき人気を誇る,新進気鋭の青年政治家であった。ポンペイウスとクラッススは彼の人気を当てこんで政治的同盟を結び,ここにいわゆる「第1回三頭政治」が成立した(前60年)。しかしクラッススの死後,ポンペイウスとカエサルの仲は決裂し,再び,ローマは内乱の大波にさらわれてしまう。この内乱の最終勝者となったカエサルは,抜本的な政治改革として「王政」の復活を志したが,志し半ばにして,ブルートゥスらの共和政擁護派たちの刃に倒れた。

 カエサル死後の混乱の中で台頭したのは,カエサルによって養子とされたオクタヴィアヌスと,カエサルの副将であったアントニウスであった。この両者は,もう一人を加えて「第2回三頭政治」を結成したが,やがて決裂。アントニウスは,カエサルの死後自分の愛人としたエジプト女王クレオパトラとともに,オクタヴィアヌスに最後の戦いを挑んだ。しかし,天下分け目のアクティウムの海戦(前31年)の結果,オクタヴィアヌスが最終的勝利を収め,前27年,元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を受けると,事実上の「ローマ皇帝」として全帝国に君臨することとなった。ここに,「帝政ローマ」が幕を開けた。

 彼の死後は,クソまじめでけちのティベリウス帝が続いた。アウグストゥスの妻の連れ子であったため,「他に誰もいなかった」という理由で皇帝の座がめぐってきた人物で,緊縮財政のため当然市民の人気は低いが,国庫は黒字の健全財政となった。

 その跡を継いだのが,若き皇帝ガイウス,というよりは子供時代からの愛称「カリグラ」(ちっちゃな軍靴)として知られていた人物である。彼の登位に,市民たちは新しい時代の到来を予感して,拍手喝さいした。しかし,大病の後精神変調をきたした彼は,すっかり「変態皇帝」として名を残すこととなる。彼を主人公にしたポルノ映画さえ作られているくらいであるから,どんなものであったか想像がつこう。風評に従えば,「妹と近親相姦」を行い,「みずからを神と信じ,ゼウスの格好をして」元老院に現れ,「親族・郎党を皆殺し」にし,「愛馬を元老院議員に任命」し,最後には親衛隊の反乱で抹殺される。しかし,その死を悲しむものは誰一人としていなかったという。すべてを信じることもできないが,少なくとも,刹那的で,終わった後はむなしさだけが残る大イベントに公費を浪費し,ティベリウスが残した財政黒字は完全に吹っ飛んでしまい。彼自身,家財道具を競売にかけなければならないほどの窮乏状態であったとは間違いない。カリグラが死んだとき,皆ほっと一息ついたことは確かだが,しかし,困った問題が起こった。“次の皇帝は誰だ?”ということである。というのも,カリグラはみずからの権力の座が脅かさせることを恐れて,一族郎党の主だった男性を,ほとんど葬り去っていたからである。で,一人だけ残っていたのが,カリグラの叔父,“アホ”のクラウディウスであった。

 クラウディウス-すでに50に手が届く壮年ではあったが,身体に軽い障害があり,慌てるとどもり,口から泡を吹きながらよだれをたらす…。この叔父にだけは,さすがのカリグラも疑念を抱くことはなかったらしい。そして,カリグラの死後,彼が“ただ一人の親族”として生き残っていたわけである。しかし,実は見かけほど愚鈍ではなかった。趣味は歴史研究であったが,そこから学んだのだろうか,統治とは何かということがわかっていたようである。彼は,社会資本を整備し,カリグラがめちゃめちゃにしたローマの再建に精力的につとめた。しかし,家庭生活は不幸で,3番目の歳の離れた妻には裏切られ,世間の笑い者となり,最後は4番目の妻に毒殺されてしまった。この4番目の妻で,クラウディウス帝の姪でもあった小アグリッピナの連れ子が,次の皇帝,あの“暴君”ネロであった。

 哲学者セネカの薫陶を受け,無難な船出を行ったネロであったが,このユリウス=クラウディウス家の常として,次第に変態性を帯びてきた。みずからを“最高の歌手”と信じて疑わず,ところかまわず竪琴を持ち出し自作の歌を披露し,評価しないようなら厳罰で臨む。彼の治世中,ローマが大火に包まれたことがあったが,それとて,焼け落ちる街を見て,ホメロスの「イリアス」に負けぬ詩を詠みたいがための,みずからの放火であったといわれた。そして,これが問題とされると,責任をキリスト教徒にひっかぶせ,その大量虐殺を行った。それだけではない,彼の自己顕示欲はとどまるところを知らず,ギリシアに行けば,わざわざ自分のためにオリンピックを開催させ,(当然のことながら)全種目優勝を飾った。しかし,このような統治が長続きするはずもなく,最後は,相次ぐ属州反乱の中,元老院にも見放され,悲惨な最後を遂げた。

 帝国の初期,このように“困った”皇帝たちが続いたにもかかわらず,安定した大帝国ローマの屋台骨は揺らぐことなく,空前の大発展を続けてゆく。

 やがて再び訪れた混乱の後,元老院は自分たちの同僚議員の中から,落ち着いた老ジェントルマン,ネルヴァを皇帝として選んだ。皇帝には就任したものの,彼は自分の血縁者を後継ぎにすることはなく,自分のときと同様に,同僚議員の中から後継者にトラヤヌスを指名した。こうして,ハドリアヌス,アントニヌス=ピウス,マルクス=アウレリウス=アントニヌスと,皇帝は元老院議員中から次の“第一人者”を指名し,非常に平穏なうちに政権交代が行われていった。彼ら5人を「五賢帝」と呼ぶ。(在位:後96〜180,「ローマ帝国衰亡史」で名高い,19世紀イギリスの歴史家ギボンは,彼らの時代を「人類史上もっとも幸福な時代」と呼んでいる。)

 この時代,トラヤヌス帝のときにローマ帝国領土は最大となり,北はイングランドから南はアフリカ北辺を巡り,西は大西洋から東はメソポタミアにまで至る,空前の大帝国が出現した。経済は大発展し,都市には活気がみなぎり,市場には世界中の物産があふれかえっていた。金持ちたちは,連日連夜大宴会を繰り返し,腹いっぱいになって次の料理が食べられなくなると,奴隷に鳥の羽根をのどに突っ込ませ,すっかり吐き出してしまうと,また一から新しい料理に突撃していった。劇場では新しい芝居が封切られ,街では売春婦たちが客の袖を引き,コロッセウムでは5万人の大衆が,剣闘士同士の真剣勝負に熱狂していた。遠く離れた水源からは,石造りの「水道」が山を越え谷を超え,都市に新鮮な水を供給し,公衆浴場(現在のヘルスセンター)では,一風呂浴びたあとゲームに興ずるご隠居さんの姿があった。現在東京やニューヨークにあるものは,すでに何でもあった。ただ,自動車が走ったり,飛行機が飛んだりしていないだけだった。それは。ローマだけではなく,ロンドンが,パリが,ミラノが,ウィーンが,ラテン語とローマ字と「ローマに通じる」すべての道によって一体化し,いわゆる「ローマの平和」を思いっきりエンジョイしていたのである。しかし,哲学者マルクス=アウレリウス帝の死後,ローマの政情は再び乱れ始めた。

 3世紀になると,状況は完全に悪化した。各地に駐屯する軍隊は,我先にと,自分のところの司令官を「皇帝」に推戴してローマに攻め上がり,何と,約50年の間に26人の皇帝が乱立するという大混乱の時代を迎えた。これを「軍人皇帝時代」(235〜284年)という。この26人のうち,「畳の上で死ねた」者は,ただ一人だけであった。  このように,打ち続く戦乱の中,帝国経済は衰退の一途をたどった。重税は都市経済に打撃を与え,国境線の拡大停止により捕虜奴隷の流入が止まり,「古代資本主義」を支えた奴隷制度も立ち行かなくなってきた。この非常事態において,共和政の伝統だけは残し,古い時代のシステムを形の上では温存してきた「元首政」は,すでに立ち行かなくなってきていた。そんなとき登場したのが,ディオクレティアヌス帝である。

 284年,ディオクレティアヌスは軍人皇帝の混乱の最後の勝利者となると,元首政の偽善を打破し,みずから,帝国の主人(dominus)として,また神として,人々の上に君臨することを宣言した。これを「専制君主政」という。また彼は,大帝国の一元的支配の不便さを悟り,帝国をフランス・スペイン方面,イタリア・北アフリカ方面,ギリシア方面,トルコ・エジプト方面に四分割し,それぞれに正副2名の皇帝を置くとともに,みずからは東の正帝として(ローマではなく,現在はトルコの)ニコメディアに都した。イタリアおよび帝国西半部は経済的な衰退はなはだしく,もはや全帝国の中心とはなり得なかったのである。

 ディオクレティアヌスの死後,再び始まった内乱を収めたのが,コンスタンティヌス帝であった。しかし,彼は帝位に就くと,330年,帝国の首都を正式に古都ビュザンティウムに遷し,その町に,みずからの名を取って「コンスタンティノポリス」の名を与えた(英語でコンスタンティノープル,現在のトルコのイスタンブル)。しかし,経済の衰退は収まらない。彼は奴隷制度に完全に見切りをつけ,農民(コロヌス)から移動の自由を奪い,他の職業に対しても,転職を禁じる措置をとった。江戸時代の「士農工商」にもあたる身分の固定化が始まった。ここに事実上「古代」は終わりを告げ,「中世封建社会」が見えてくるのである。また,313年,彼がミラノでキリスト教徒に信仰の自由を与えたことは,文化的にも「ギリシア・ローマ的古代」との決別であったといわなければならないだろう。  その後,ローマはテオドシウス帝の死にあたって,東西に分割され,「西ローマ帝国」は,375年から開始されるゲルマン民族大移動の大波にさらわれ,476年,最後のときを迎える。しかし,「東ローマ帝国」は,その後も1000年の命脈を保ち,ギリシア・ローマ的文明の継承者となった。

 「ローマは一日にして成らず」という。しかし一日にして成らなかったローマは,やはり,一日にして滅びることもなかった。ロムルスから言えば2500年以上の後,最後の「ローマ皇帝」が倒れるまで,ローマは,地上に,そして人々の心の中に君臨しつづけたのである。(1917年のロシア革命で倒れた「皇帝(ツァーリ)」ニコライ2世は,まさに最後の「ローマ皇帝」であった。ロシア語の“ツァーリ”とは,ラテン語の“カエサル”のことである。)また,EUの発足により,ヨーロッパの統合が進んでいる。とりもなおさず人々がそこに垣間見るものは,かつての“ひとつであったヨーロッパ”,すなわち「ローマ帝国」の姿であろう。

 ローマは,今も,そしてこれからも,我々の心の中に生き続けてゆく。

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